ラボでの半年間の生活が終わった。元はこの期間は数学の勉強に力を入れて、研究はテキトーにやってテキトーにまとめればいいや程度に思っていた。しかし思ったより研究の方に力を注ぐ必要があったので、思っていたほど数学の学習は進められなかった。またこの半年間でさらにいろんな分野の話を聞いて、さらに高度な数学の必要性の存在を思い知るなどした。今後当分数学には触れられないだろうから、また次に学習できる時期が来た頃にはすっかり忘れてしまっていそうで、とても悲しい。
その傍らツイッターを見ていると、UTの数学強い人で同じような興味を持っている人が「数学がわからない」と言っているのをたびたび見かける。この人でもわからない数学を俺が理解するには一体どれだけの時間が必要になるのかと思う。ともすれば一生を費やしても理解できないのではないかと思う。これに人生をかけるのは凡人がするようなことではない。あくまで娯楽として長期間続けて、もしそれが理解できたり、結果人生が豊かになったらラッキーくらいのものだろう。
そう考えると、今後俺がその分野に進むのはナンセンスな気がする。今回のようにラボのテーマから逸脱すると、指導教官だってゼロから指導する余力はないし、独学ではどうにも自分の思考が正しいかどうか自信がない。凡人は凡人らしく、ラボのテーマに沿って上司の指導を受けながら学習と成果を効率よく生産するべきなのではないか。または、どうしてもやりたい分野があるなら、その分野の最先端のラボで研究するかである。しかしその場合には臨床の道からは外れてることを覚悟しなければならないし、その場合には年齢的ビハインドを持つことになる。天才様なら話は別だが、凡人は凡人なりの生き方をしなければならない。医師免許を取るにはどんな天才様でも6年間かかるわけで、専門医となればさらに数年かかる。大学入学からの5.5年間で、特に前半ではもっと勉強して強くなることはできたかもしれないが、少なくともこの5.5年間は医師免許を得るために必要な5.5年間として機能するのであれば、その持て余した時間もただ無駄にしたわけではない。
さらには、もしその分野に進まないとして、それで学ぶことをやめる程度なら、やはりその分野には進むべきではないのだろう。もしやりたければ必要なくてもやるのだから、本業はそれ以外でやれることをやるスタイルでいい。
それにしてもこの分野、同じ臓器見てるのに本当に研究者によって全然見方が違う。かなり離れた2領域を掛け持ちしているようなものなので、とても強くその印象を受ける。このどちらが正しいというわけではなく、どっちも必要なんだろう。とすると、研究者の多様性という意味で、本業とはかけ離れた自分のやりたい勉強をやるというのは、凡人の凡人として出来ることなのではないかと思う。さらにはやりたい勉強に限らず、音楽も読書もスポーツも、友達も人間関係も、あらゆる要素がこの多様性に関わる。
つまり何をしてもそれは無駄にはならない。もちろんこれはくいっぱぐれることはないという前提での話なので、もし将来医師過剰にでもなったら話は変わってくるが、親の生き方を聞いていると、その時はその時でどうにでもなるという感じがする。今苦しんで努力して学んだことも、ラクに楽しくやったことも、どちらも等しく武器にも無駄にもなりうる。ならラクに楽しく生きた方がいいな。苦しくても結果何かを明らかにするのは幸せ、みたいな生き方もあるとは思うが、幸せになる方法は少なくとも俺にはそれだけではない。
上で書いたように、やらなきゃいけない数学やらなんやらがあまりに多すぎて、これから国家試験対策に向かうのがあまりにばかばかしく思っていたが、これをもってひとまずリセットして国家試験対策を開始しようという気にもなれそうだ。この半年間、脳機能をフル稼働してノロノロとしか読み進まないものをずっと読んできた。元は自由に使える半年間だったのに、いざその半年間に入ると「大量の知識を半年で詰め込まなければならない」と焦っていた気がする。もっと肩の力抜いてもよかったな。数学は2, 3月にやろう。今日はなんとなく小説を買ってきたので、土日はこれ読んで脳内洗浄といこう。
そして国試対策へ。
この記事、後から見てこっぱずかしくなるんかなー。
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